経歴
Career

詳細経歴

1961年8月13日
岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)の生家にて徹夜踊りの初日の深夜に誕生。当時、祖父は「八幡堂菓子舗」を営む。

その後、愛知県西春日井郡豊山町(現・豊山町)の県営住宅で育つ。
1966年4月
3年保育の2年目より、地元のヤマハ音楽教室に通い、2年間オルガンを学ぶ。
1968年4月
愛知県西春日井郡豊山町立豊山小学校に入学(イチローの母校)。
ヤマハ音楽教室にてピアノを学ぶ一方、野球にも親しむ。
1971年8月
希望していたピアノ教室や学習塾、書道塾に通うことを望むも、新居購入後の4人兄妹という家庭事情から断念。
ピアノはNHK教育テレビ「ピアノのおけいこ」で独学し、井内澄子の丁寧でやさしい指導に親しみながら学ぶ。
クラシック音楽のほか、Carpentersや井上陽水にも興味を持ち始める。
1973年
小学6年時、前期生徒会長に選出される。また、愛知県小学生陸上記録会に学校代表として出場し、ソフトボール投げで68mを記録して1位となる。

城東中学校に野球部がなかったことから、私立滝中学校への進学を目指し、独学で勉強に打ち込む。両親と担任教師に野球部のある滝中への進学希望を伝え、学年トップの成績を収めるまでになるが、担任教師による家庭訪問も行われた結果、家の新築間もない事情や兄弟姉妹の多い家庭環境などを踏まえ、私立中学受験は断念することとなった。
1974年4月
城東中学校に入学。
野球部がなかったため当初は卓球部を第一希望とするが、校内で最も背が高かったことから、ハンドボール部顧問の勧めによりハンドボール部に入部。
1974年5月頃
入学直後の校内テストで学年13位となる。
当時、周囲の多くが塾で受験対策を行う中、独学で学び、教頭先生から「長尾君、学年13番か。小学校からの申し送りの評判ほどではないね」と言われたことが、教師に対する大きな反発心の原点となる。
カーペンターズやビートルズの音楽に目覚める。
1974年10月頃
男子丸刈り、靴下の色や模様など細かい校則について違和感を持ち1年生で学校始まって初めて生徒会長(後期)になる。
1976年5月
生徒会長(前期)になる(3年)。
1976年8月
城東中ハンドボール部が初めて県大会出場(正キーパー)。
1977年4月
愛知県立犬山高等学校に入学。
ハンドボール部に入部する一方、軽音楽同好会にも所属し、同級生とバンドを結成。文化祭や地域イベントに出演する。
また、ラグビー部の試合で人数不足の際には助っ人として参加。

「高校になったらピアノを習わせる」という両親との約束が実現し、犬山のヤマハ音楽教室にて1年間ピアノを学ぶ。
その後2年間、名古屋音楽学校に通い、ソルフェージュ、音楽理論、声楽を学ぶ。
1977年5月以降
高校時代は、同級生や1年先輩らとバンドを組み、音楽活動を行う。
Deep Purple、Rainbow、The Beatles、サザンオールスターズ、ツイストなどを演奏し、文化祭や地域イベントにも出演。

なお、1年先輩らのバンドはLed Zeppelinのコピーバンドで、ギタリストには、後に株式会社スワンソングス代表となる相馬敦がいた。
1978年4月
音楽系大受験に向けた学習を行う。地元のヤマハ音楽教室を辞め、名古屋音楽学校で、ピアノ、楽典、ソルフェージュ、聴音などを学ぶ。

一方、兄妹が多い家庭事情から、親より「浪人は不可、公立大学のみ進学可能」と告げられる。
国公立の音楽系大学は学力面以上に実技レベルが非常に高く、幼少期から本格的に学んできた受験生も多い中、自身は本格的な実技指導を受け始めた時期が遅かったことから、限られた条件の中で進路を模索する。

その中で、小学時代からNHK「ピアノのおけいこ」を通じて親しんできた井内澄子の教える大学への進学を希望。
実技試験のピアノ課題曲が共通していたことから、公立の愛知教育大学と、私立では東海大学の受験のみ認められる。

ただし、東海大学へ進学する場合は「生活費は自分で負担すること」が条件。
1978年9月
高校時代、文化祭でのエレキギター使用禁止が決定。
理由は、「騒音により近隣の養鶏場の卵の生産性が下がったため」と説明される。
1978年10月
文化祭でのエレキギター使用禁止撤回を公約に生徒会長選挙へ立候補し、当選。
小・中・高校を通じ、生徒会長を務めたのは計4回となる。
1979年
公立大学受験のため、共通一次試験(5教科7科目)に加え、音楽大学受験に向けたピアノ課題曲やソルフェージュなどの勉強にも励む。一方で、受験生でありながら高校3年の冬休み頃まで、学校には内緒で仲間とバンド活動を続け、ライブを何度も行っていた。
1980年4月
東海大学教養学部芸術学科音楽学課程に入学。入学後、師事を希望していた井内先生が大学院生のみを指導していることを知り、大きな衝撃を受ける。

大学1年目の学費は家族の支援を受けたものの、以後は自活。家庭教師を3件掛け持ちし、さらにコンビニの早朝アルバイトにも従事しながら、生活費と学費を工面した。アルバイト代で電気ピアノを購入し、夜はヘッドフォンを付けて練習に励む日々を送る。

家庭教師の仕事では、食事を用意してもらえるありがたさだけでなく、勉強が苦手な子どもたちに「やる気」を引き出す難しさと向き合う経験を積む。この経験は、後の音楽教師としての指導スタイルの大きな礎となっている。
1984年3月
東海大学教養学部芸術学科音楽学課程を卒業。中学校・高等学校音楽科教員免許を取得。
1984年4月
株式会社東海ビデオシステム(現・株式会社TVS NEXT)に入社。

社長同席の最終面接では、「どんな会社員になりたいですか?」との問いに、「音楽を勉強してきたので、それを生かしながらしっかり頑張り、他社から引き抜かれるような人になりたいです」と答える。すると鶴見聡平社長から、「長尾君、これからは音楽も大切だ。採用。卒業したら入社前にアルバイトで働いてもいいよ」と声を掛けられる。

入社後は3年間、CBCテレビニュース部に出向し、取材活動などに従事。ビデオエンジニアおよびカメラマンとしての技術を学ぶ。
1985年4月
ポピュラー音楽への関心を深め、ヤマハ音楽教室東山センターにて、作・編曲家の林雅諺に作曲・編曲を師事。上京後も継続して指導を受ける。
1986年4月
作曲は大学で専門的に学んでいなかったため、仕事と並行して名古屋芸術大学音楽学部にて、和声・対位法・作曲を1年間、聴講生として学ぶ。
1987年3月
株式会社東海ビデオシステムを退社し、上京。

CBCテレビでニュース取材の仕事に携わる中、アナウンサーの福島敦子さんと将来について話す機会があった。東京で仕事をしたいという思いを伝えると、「やらなくて後で後悔するのは嫌だから、私もやりたいことに進むと思う」と背中を押され、上京を決意する。

福島敦子さんは、その後、TBSテレビやNHKのキャスターなどを歴任し、幅広く活躍されている。また妹の福島弓子さんは、元TBSテレビアナウンサーとして活躍後、イチロー氏と結婚。なお、長尾が小学3年生まで通っていた豊山小学校は、後にイチロー氏も通った学校であり、思いがけないつながりとなっている。

在職中は鶴見聡平社長に大変世話になり、退社後も撮影の仕事などで声を掛けてもらうなど、上京後も良好な関係が続いた。
1987年4月
上京後はフリーとして、企業VP、ビデオ制作、ブライダル映像などの撮影を担当するほか、BGMなどの音楽制作にも携わる。

また、作・編曲家の林雅諺先生には、上京後も変わらず師事。アレンジラボ東京にて、作曲・編曲を継続して学ぶ。
1987年5月
東京都非常勤講師(音楽)として採用される。以降、現在に至るまで東京都内の公立学校で非常勤講師を務める。

勤務日以外には撮影業務も継続し、映像制作・撮影の現場でも活動。プロカメラマンと音楽教師という“二足のわらじ”を続ける異色の経歴として語られることもある。
1988年
吹奏楽指導力向上のため、全国の著名指導者を自費で訪ね研究を重ねる。
酒井正幸先生や、吹奏楽編曲家として知られる八田奏一先生のもとへ通い、吹奏楽指導法や編曲法について学ぶ。八田先生には鈴ヶ森中学校吹奏楽部の指導にも数回指導に来ていただいた。
1988年
共同テレビジョンの契約ビデオカメラマンとなり、約16年間にわたり、フジテレビのニュース取材や、皇室番組「皇室ご一家」、情報番組「めざましテレビ」「情報プレゼンター とくダネ!」などの撮影に従事(約16年間)。
音楽関連では、和波孝禧、さだまさし、Mariah Carey、X JAPANなど多くの撮影を担当。
1993年8月
私立・公立中学校の多くが専任教諭による指導体制をとる中、週2〜3回の指導を行う非常勤講師として、品川区立鈴ヶ森中学校吹奏楽部を指導。第33回東京都中学校吹奏楽コンクールにおいて、品川区内で唯一の金賞受賞へ導く(指導・指揮:長尾)。
こうした教育活動と、プロカメラマンとの二足のわらじによる異色の経歴が注目され、1994年3月、フジテレビの番組「タイムアングル」において、「先生はカメラマン」として取り上げられる。
2005年11月11日
株式会社オール・コレクトを設立し、代表取締役に就任。
BMW Japan、JTなどの研修ビデオ撮影をはじめ、Toyota Motor Corporation関連イベント、テレビ番組撮影など、映像制作業務を幅広く手掛ける。
業務詳細は、下記「撮影」「音楽制作」「音楽指導歴」「受賞歴」の項参照。
2013年12月
中咽頭側壁がんを患い、NTT東日本関東病院に入院。抗がん剤治療を受ける。
2014年
2013年1月に中咽頭がんに伴い扁桃腺の切除手術を受ける。
同年3月よりがん研有明病院にて放射線治療を開始。4月より仕事に復帰。

また、シングルファーザーとして2人の子どもを育てているため、療養期間中は実家の母が約1年間東京に滞在し、育児のサポートを行った。
2015年1月
翌年、反対側の中咽頭がんが再発し、手術により切除(前回の検査では確認されなかった小さな病変を摘出)。その後は再発なく経過。3月より仕事に復帰。
2017年3月
ケーブルテレビ品川が制作した、戦後70周年特別番組「今聞いておきたい!あの日の記憶 壊滅した商店街と満蒙開拓団」において撮影を担当(品川区広報番組)。本作品は平成28年度東京都広報コンクールにて最優秀第一席を受賞し、さらに全国広報コンクール2017(平成29年)において読売新聞社賞(映像部門3席)を受賞。

撮影は一眼レフによる動画撮影とビデオカメラを併用して行われた。
2017年以降
教科書副教材等の映像制作(撮影・編集)
2019年
6月より品川区立東海中学校にて、3か月契約のもと全クラスの音楽授業を担当(週3日)。
7月、学校側より吹奏楽部の指導およびコンクールでの指揮を依頼される。「3年連続金賞がかかっているが、現状では指揮者が不在でコンクール出場が難しいため、ぜひお願いしたい」との要請を受ける。

8月4日、東京都中学校吹奏楽コンクール(B組)において、品川区立東海中学校吹奏楽部が金賞を受賞(通算3回目の金賞、指揮:長尾)。
実質1か月を切る短期間での集中指導による成果として、教育関係者・保護者・マスコミ関係者の間で「奇跡」と評される。
2020年12月~2021年3月
音楽指導において実践的な現場力を有し、かつ撮影・編集まで一貫して対応できる点が評価され、ミャンマー政府の教科書副教材制作において、現地音楽家への指導および撮影ディレクションを担当。

制作にあたっては、現地の文化的背景や音楽表現を踏まえ、教材映像としての構成・撮影・編集を一体的に設計した。
また、2021年2月のミャンマークーデター発生後は、現地音楽家の状況や心情にも配慮し、教育的価値と記録性の両立を重視した教材映像として納品した。ミャンマー政府の教科書副教材作成にあたり現地音楽家指導・撮影ディレクション担当。2021年2月にクーデターが起こり、現地の音楽家の心情を察した納品物を作成
2021年8月
世界の紛争地で平和が訪れることを願い、ピアノ曲「心の中の精霊」(作曲 長尾聖生)piano piece "Spirit of our Heart”の動画を発表。
https://youtu.be/MDSzy7fbtoM
現在
長年にわたる音楽教育の実践と、テレビ局で培った撮影・編集技術、さらに海外における教科書副教材制作などの豊富な経験を活かし、撮影・編集業務に誠意をもって取り組む。

また音楽指導においては、生徒一人ひとりとの良好な関係性を築きながら、その意欲を引き出す教育活動を行っている。
1961年8月13日
岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)の生家にて誕生。
当時、祖父は「八幡堂菓子舗」を営む。

その後、愛知県西春日井郡豊山町(現・豊山町)の県営住宅で育つ。
1966年4月
3年保育の2年目より、地元のヤマハ音楽教室に通い、2年間オルガンを学ぶ。
1968年4月
愛知県西春日井郡豊山町立豊山小学校に入学(イチローの母校)。
ヤマハのアップライトピアノを購入してもらい、ヤマハ音楽教室にてピアノを学ぶ一方、野球にも親しむ。
1971年8月
希望していたピアノ教室や学習塾、書道塾に通うことを望むも、新居購入後の4人兄妹という家庭事情から断念。
ピアノはNHK教育テレビ「ピアノのおけいこ」で独学し、井内澄子の丁寧でやさしい指導に親しみながら学ぶ。
クラシック音楽のほか、Carpentersや井上陽水にも興味を持ち始める。
1973年
小学6年時、前期生徒会長に選出される。また、愛知県小学生陸上記録会に学校代表として出場し、ソフトボール投げで68mを記録して1位となる。

城東中学校に野球部がなかったことから、私立滝中学校への進学を目指し、独学で勉強に打ち込む。両親と担任教師に野球部のある滝中への進学希望を伝え、学年トップの成績を収めるまでになるが、担任教師による家庭訪問も行われた結果、家の新築間もない事情や兄弟姉妹の多い家庭環境などを踏まえ、私立中学受験は断念することとなった。
1974年4月
城東中学校に入学。
野球部がなかったため当初は卓球部を第一希望とするが、校内で最も背が高かったことから、ハンドボール部顧問の勧めによりハンドボール部に入部。
1974年5月頃
入学直後の校内テストで学年13位となる。
当時、周囲の多くが塾で受験対策を行う中、独学で学び、教頭先生から「長尾君、学年13番か。小学校からの申し送りの評判ほどではないね」と言われたことが、教師に対する大きな反発心の原点となる。
1976年5月
生徒会長(前期)になる(3年)。
1976年8月
城東中ハンドボール部が初めて県大会出場(正キーパー)。
1977年4月
愛知県立犬山高等学校に入学。
ハンドボール部に入部する一方、軽音楽同好会にも所属し、同級生とバンドを結成。文化祭や地域イベントに出演する。
また、ラグビー部の試合で人数不足の際には助っ人として参加。

「高校になったらピアノを習わせる」という両親との約束が実現し、犬山のヤマハ音楽教室にて1年間ピアノを学ぶ。
その後2年間、名古屋音楽学校に通い、ソルフェージュ、音楽理論、声楽を学ぶ。
1978年4月
名古屋音楽学校に通い、ソルフェージュ、聴音、音楽理論、声楽など、音大受験に向けた学習を行う。

一方、兄妹が多い家庭事情から、親より「浪人は不可、公立大学のみ進学可能」と告げられる。
国公立の音楽系大学は学力面以上に実技レベルが非常に高く、幼少期から本格的に学んできた受験生も多い中、自身は本格的な実技指導を受け始めた時期が遅かったことから、限られた条件の中で進路を模索する。

その中で、小学時代からNHK「ピアノのおけいこ」を通じて親しんできた井内澄子の教える大学への進学を希望。
実技試験のピアノ課題曲が共通していたことから、公立の愛知教育大学と、私立では東海大学の受験のみ認められる。

ただし、東海大学へ進学する場合は「生活費は自分で負担すること」が条件。
1978年8月
高校時代は、同級生や1年先輩らとバンドを組み、音楽活動を行う。
Deep Purple、Rainbow、The Beatles、サザンオールスターズ、ツイストなどを演奏し、文化祭や地域イベントにも出演。

なお、1年先輩らのバンドはLed Zeppelinのコピーバンドで、ギタリストには、後に株式会社スワンソングス代表となる相馬敦がいた。
1978年9月
高校時代、文化祭でのエレキギター使用禁止が決定。
理由は、「騒音により近隣の養鶏場の卵の生産性が下がったため」と説明される。
1978年10月
文化祭でのエレキギター使用禁止撤回を公約に生徒会長選挙へ立候補し、当選。
小・中・高校を通じ、生徒会長を務めたのは計4回となる。
1979年
公立大学受験のため、共通一次試験(5教科7科目)に加え、音楽大学受験に向けたピアノ課題曲やソルフェージュなどの勉強にも励む。一方で、受験生でありながら高校3年の冬休み頃まで、学校には内緒で仲間とバンド活動を続け、ライブを何度も行っていた。
1980年4月
東海大学教養学部芸術学科音楽学課程に入学。入学後、師事を希望していた井内先生が大学院生のみを指導していることを知り、大きな衝撃を受ける。

大学1年目の学費は家族の支援を受けたものの、以後は自活。家庭教師を3件掛け持ちし、さらにコンビニの早朝アルバイトにも従事しながら、生活費と学費を工面した。アルバイト代で電気ピアノを購入し、夜はヘッドフォンを付けて練習に励む日々を送る。

家庭教師の仕事では、食事を用意してもらえるありがたさだけでなく、勉強が苦手な子どもたちに「やる気」を引き出す難しさと向き合う経験を積む。この経験は、後の音楽教師としての指導スタイルの大きな礎となっている。
1984年3月
東海大学教養学部芸術学科音楽学課程を卒業。中学校・高等学校音楽科教員免許を取得。
1984年4月
株式会社東海ビデオシステム(現・株式会社TVS NEXT)に入社。

社長同席の最終面接では、「どんな会社員になりたいですか?」との問いに、「音楽を勉強してきたので、それを生かしながらしっかり頑張り、他社から引き抜かれるような人になりたいです」と答える。すると鶴見聡平社長から、「長尾君、これからは音楽も大切だ。採用。卒業したら入社前にアルバイトで働いてもいいよ」と声を掛けられる。

入社後は3年間、CBCテレビニュース部に出向し、取材活動などに従事。ビデオエンジニアおよびカメラマンとしての技術を学ぶ。
1985年4月
ポピュラー音楽への関心を深め、ヤマハ音楽教室東山センターにて、作・編曲家の林雅諺に作曲・編曲を師事。上京後も継続して指導を受ける。
1986年4月
作曲は大学で専門的に学んでいなかったため、仕事と並行して名古屋芸術大学音楽学部にて、和声・対位法・作曲を1年間、聴講生として学ぶ。
1987年3月
株式会社東海ビデオシステムを退社し、上京。

CBCテレビでニュース取材の仕事に携わる中、アナウンサーの福島敦子さんと将来について話す機会があった。東京で仕事をしたいという思いを伝えると、「やらなくて後で後悔するのは嫌だから、私もやりたいことに進むと思う」と背中を押され、上京を決意する。

福島敦子さんは、その後、TBSテレビやNHKのキャスターなどを歴任し、幅広く活躍されている。また妹の福島弓子さんは、元TBSテレビアナウンサーとして活躍後、イチロー氏と結婚。なお、長尾が小学3年生まで通っていた豊山小学校は、後にイチロー氏も通った学校であり、思いがけないつながりとなっている。

在職中は鶴見聡平社長に大変世話になり、退社後も撮影の仕事などで声を掛けてもらうなど、上京後も良好な関係が続いた。
1987年4月
上京後はフリーとして、企業VP、ビデオ制作、ブライダル映像などの撮影を担当するほか、BGMなどの音楽制作にも携わる。

また、作・編曲家の林雅諺先生には、上京後も変わらず師事。アレンジラボ東京にて、作曲・編曲を継続して学ぶ。
1987年5月
東京都非常勤講師(音楽)として採用される。以降、現在に至るまで東京都内の公立学校で非常勤講師を務める。

勤務日以外には撮影業務も継続し、映像制作・撮影の現場でも活動。プロカメラマンと音楽教師という“二足のわらじ”を続ける異色の経歴として語られることもある。
1988年
吹奏楽指導力向上のため、全国の著名指導者を自費で訪ね研究を重ねる。
酒井正幸先生や、吹奏楽編曲家として知られる八田奏一先生のもとへ通い、吹奏楽指導法や編曲法について学ぶ。八田先生には鈴ヶ森中学校吹奏楽部の指導にも数回指導に来ていただいた。
1988年
共同テレビジョンの契約ビデオカメラマンとなり、約16年間にわたり、フジテレビのニュース取材や、皇室番組「皇室ご一家」、情報番組「めざましテレビ」「情報プレゼンター とくダネ!」などの撮影に従事(約16年間)。
音楽関連では、和波孝禧、さだまさし、Mariah Carey、X JAPANなど多くの撮影を担当。
1993年8月
私立・公立中学校の多くが専任教諭による指導体制をとる中、週2〜3回の指導を行う非常勤講師として、品川区立鈴ヶ森中学校吹奏楽部を指導。第33回東京都中学校吹奏楽コンクールにおいて、品川区内で唯一の金賞受賞へ導く(指導・指揮:長尾)。
こうした教育活動と、プロカメラマンとの二足のわらじによる異色の経歴が注目され、1994年3月、フジテレビの番組「タイムアングル」において、「先生はカメラマン」として取り上げられる。
2005年11月11日
株式会社オール・コレクトを設立し、代表取締役に就任。
BMW Japan、JTなどの研修ビデオ撮影をはじめ、Toyota Motor Corporation関連イベント、テレビ番組撮影など、映像制作業務を幅広く手掛ける。
業務詳細は、下記「撮影」「音楽制作」「音楽指導歴」「受賞歴」の項参照。
2013年12月
中咽頭側壁がんを患い、NTT東日本関東病院に入院。抗がん剤治療を受ける。
2014年
2013年1月に中咽頭がんに伴い扁桃腺の切除手術を受ける。
同年3月よりがん研有明病院にて放射線治療を開始。4月より仕事に復帰。

また、シングルファーザーとして2人の子どもを育てているため、療養期間中は実家の母が約1年間東京に滞在し、育児のサポートを行った。
2015年1月
翌年、反対側の中咽頭がんが再発し、手術により切除(前回の検査では確認されなかった小さな病変を摘出)。その後は再発なく経過。3月より仕事に復帰。
2017年3月
ケーブルテレビ品川が制作した、戦後70周年特別番組「今聞いておきたい!あの日の記憶 壊滅した商店街と満蒙開拓団」において撮影を担当(品川区広報番組)。本作品は平成28年度東京都広報コンクールにて最優秀第一席を受賞し、さらに全国広報コンクール2017(平成29年)において読売新聞社賞(映像部門3席)を受賞。

撮影は一眼レフによる動画撮影とビデオカメラを併用して行われた。
2017年以降
教科書副教材等の映像制作(撮影・編集)
2019年
6月より品川区立東海中学校にて、3か月契約のもと全クラスの音楽授業を担当(週3日)。
7月、学校側より吹奏楽部の指導およびコンクールでの指揮を依頼される。「3年連続金賞がかかっているが、現状では指揮者が不在でコンクール出場が難しいため、ぜひお願いしたい」との要請を受ける。

8月4日、東京都中学校吹奏楽コンクール(B組)において、品川区立東海中学校吹奏楽部が金賞を受賞(通算3回目の金賞、指揮:長尾)。
実質1か月を切る短期間での集中指導による成果として、教育関係者・保護者・マスコミ関係者の間で「奇跡」と評される。
2020年12月~2021年3月
音楽指導において実践的な現場力を有し、かつ撮影・編集まで一貫して対応できる点が評価され、ミャンマー政府の教科書副教材制作において、現地音楽家への指導および撮影ディレクションを担当。

制作にあたっては、現地の文化的背景や音楽表現を踏まえ、教材映像としての構成・撮影・編集を一体的に設計した。
また、2021年2月のミャンマークーデター発生後は、現地音楽家の状況や心情にも配慮し、教育的価値と記録性の両立を重視した教材映像として納品した。ミャンマー政府の教科書副教材作成にあたり現地音楽家指導・撮影ディレクション担当。2021年2月にクーデターが起こり、現地の音楽家の心情を察した納品物を作成
2021年8月
世界の紛争地で平和が訪れることを願い、ピアノ曲「心の中の精霊」(作曲 長尾聖生)piano piece "Spirit of our Heart”の動画を発表。
https://youtu.be/MDSzy7fbtoM
現在
長年にわたる音楽教育の実践と、テレビ局で培った撮影・編集技術、さらに海外における教科書副教材制作などの豊富な経験を活かし、撮影・編集業務に誠意をもって取り組む。

また音楽指導においては、生徒一人ひとりとの良好な関係性を築きながら、その意欲を引き出す教育活動を行っている。